祈りと共に。

昨日、一人の子どもが
自ら命を絶った。

中学3年生。
受験前だね。

何があったのか、分からない。

でも、
生きていけない。
真っ暗だったであろう
胸のうちを想うと
言葉を失う。

 

世界は広い。
人生も多様。
価値観も多様に。

でも、家庭と学校が中心の生活の中で
その多様さと出会うことは難しい。

子どもが見ている景色は
とても限られている。

自分の中の豊かさも、
世の中の多様さも、
知らないままに。
死んでしまった。

素晴らしい個性を、
素晴らしい可能性を、
素晴らしい未来を、
知らずに。
自分自身の素晴らしさと出逢わずして。

 

学校に行って、いろんな人がいることを学んでほしい。って
言う人が多くいる。

でも、広い世の中の中で、
学校の中は多様性に欠け、
個性を疎んじられ、
協調性が何よりも重要視される。
「いろんな人」の枠が、実は、とても狭い。

戦後作られてきたレールに
心地よく乗れる人は
実はとても少ない。

もっと前の日本社会は
いろんな仕事があり、
いろんな生き方があり、
お金がなくても
おおらかに、人々がつながり、笑っていた。
、、、、その時代に居なかったから分からないけど、
どうやらそういうことらしい。

 

地域の中でたくさんの大人が関わって育ってきた子どもたちが、
地域の子どもたちが縦割りで遊ぶ中で育ちあってきた子どもたちが、
学校の枠に集められた。

そこでは同一の集団を作る。

学校の先生が悪いのではない。
家庭に問題があるのではない。
クラスメートに問題があるのではない。

この社会の仕組みそのもの。
多様であることを認め合わない社会の仕組みそのもの。

同一であることを強いる。そのものに、子どもたちが苦しんでいる。

 

毎日毎日 一日8時間くらいもの間「学校」に拘束されること
塾だ、習い事だ、、、休日も拘束されること
その弊害を誰も考えない。
だってみんなやってるから。
子どもの教育に熱心に。
親たちは一生懸命に、子どもを引っ張り、尻をたたく。
子ども達も、みんなと一緒が安心になる。

 

教育にいくら熱心になっても
将来お給料がよくなったとしても
それが「しあわせ」であるかどうか、
それは子ども本人が決めていくこと。

今、「しあわせ」であるかどうか。
それは子ども本人しか分からないこと。

私たちの社会が子どもたちの首を真綿で絞め続けている。
大人たちだって、息苦しい中でもがいている。

 

もうやめようよ。

 

一人ひとりが多様であること。
小さいうちから、それを体験できる社会にしていこう。

自分の居場所は 自分が決めること。
自分の心地いい過ごし方を 自分で探せるチャンスを。
そして自分で決めていけるチャンスを。
親は我が子に与えよう。

 

どんな時でも
胸のうちに あかりを灯して生きていけるように。
どんな時でも
唯一無二の自分を信じ、愛せるように。
子どもたちが 本当は生まれながらにして持っている力を信じて育んでいきたい。

 

でも、きっと、それは、まだ、少数派だからね。
社会の中で、堂々と立てるように、
大人はつながり、知恵を出し合おう。

亡くなった命に
見ていて下さいと祈りつつ。

 

合掌